2011年1月27日木曜日

相馬市長立谷秀清メールマガジン第238への私考

4月には中村開府400年祭を行う予定、との「相馬市長 立谷秀清めーるまがじん 平成23年1月7日第238より」への私考

めーるまがじんは
1611年伊達藩の来襲に備えるため藩領北端に本拠地を移した、とありますが

利胤朝臣御年譜(相馬藩世紀)第一
1、十二月7日、義胤君領知之御朱印御頂戴、
高四満八千七百石、宇多、行方、標葉三郡、
1、同年、秀吉公、諸国の私戦を制禁

以下私考
上記、古文書写しは天正18年(1590)12月7日付けのものです。豊臣秀吉はこの文書で利胤に私戦を禁じています。又、全国的には「総無事令」を発し大名間の戦争を禁じました。徳川幕府もこれを引き継ぎました。
慶長8年(1603)徳川家康征夷大将軍となる、江戸幕府創立。
同10年(1605)徳川秀忠第二代将軍となる。
1611年(慶長11年)は徳川秀忠の時代です。総無事令の時代です。伊達藩といえども禁制を犯して相馬藩に攻め入れば、伊達藩の御家、御取り潰しに発展します。その頃、幕府は口実があれば奥州の覇者、伊達藩を潰したかったとも推察できます。そのような危険を冒してまで相馬藩を攻める伊達正宗ではなかったはずです。
相馬藩が藩領北端に本拠地を移したのには外に理由があったはずです。「原釜の港の活用」との説もあります。
めーるまがじんは又、
天明(18世紀末)には飢饉で人口を最盛期の3分の1にまで減らすという塗炭の苦しみを味わった。とあります。
私考
天明、天保の大飢饉で亡くなった6万余人は総て百性、町人であり、武家400余の総ての家族は無傷のまま、生き残ったものと思います。死出の旅を余儀なくされた6万余人のと百性、町人にも心を致すべきだと思います。
私注 相馬市は福島県の太平洋岸北端に在り、人口38122人