2013年12月27日金曜日

首相の靖国参拝

 安倍さん首相にはプライベートは極限られていますね。安倍さんは上手に国民を靖国神社に連れて行こうとしているのがちらほら見えます。靖国神社に向かわせられる人生は哀れです。靖国神社は怖い所ですよね。祭られてしまったらご家族の苦しみはご家族でなければ分かりません。過酷以上の過酷です。安倍さんはそこに国民を連れて行こうとしているんだ。「お国の為に亡くなられた」そんなものではありません。一人ひとりは死にたくなくて何とかのがれようとしますが国家権力の前にはどうすることも叶いません。そのどうしようにも無い途に安倍さんは上手に手を打っています。  国防の名のもとに亡くなられた方々には首相報酬又は日本の最高報酬者以上の人命賠償金を払う法律を先ず作ってください。靖国神社の名の元に人命を値切らないで下さい。人命保障の安上がりを目論む靖国参拝は謹んで下さい。  又、軍事費にお金を掛け過ぎるから人命への賠償金が手薄になります。軍事産業って儲け放題と聞きました。値切らず、言い値とおりに売れるのは軍事品だけと聞きました。  安倍さん 軍事産業には肩入れしないで下さい。もしそうでしたらバックマージン。安倍さんの手の内には秘密保護法は適用しないで下さい。  安倍さんは戦争の臭いがぷんぷんします。ご免。

2013年7月31日水曜日

セシウム23億ベクレル

 福島民報25,7,28記事「第一原発汚染水問題、地下道でセシウム23億ベクレル東電、漏えい源特定急ぐ」
 このことで人にはどんな被害を及ぼすのか私はその知識はありませんが有害なようです。
原子力は人の知識では抑えこむことは出来ない様です。その原子力を使って発電しています。
東京電力、福島原発は23,3,11東日本大震災がもとで爆発し、今、セシウムが23億ベクレルも漏れていると言う。この地方に住む人々は住み場をなくしています。
 ところで、去る、参院選では原子力発電を推進すると言った自民党が圧勝した。国民はセシウム23億ベクレル漏えいを容認したことにつながるが、それは違う。
 自民党は圧勝の民意を土台に原子力発電を推進するはずだが、多くの国民はどうすれば
いいのだろう。
 日本の人口約1億3000万人、双葉地方の被害住民約10万人、対比すればごくわずかです。人命対比で政治を進めてはなりません。この住民を元の生活に完全に戻してから原子力政策を考えるべきなのに不完全な対応のままで自民党政治は進むことでしょう。自民党を圧勝させた国民も、そうでない国民も力をあわせて自民党の原子力政策を止めさせる方法はないものか、参院選だけが日本人の生き方を決定するのではないと思うが、その道があるとすればどんな道があるのだろう。
参院選、自民党圧勝の直後だけに難しいことですね。

2013年7月17日水曜日

無題

 桓武政権は坂上田村麻呂に蝦夷地を侵略させた。田村麻呂は蝦夷地の王者アテルイとモレと和し、アテルイとモレを京に同行した。桓武は許さじアテルイとモレを斬る。
 処刑場に向かうアテルイとモレの会話です。
 沢田 ふじ子  陸奥甲冑記 昭和60年5月15日発行より

     記
 馬を並べたアテルイとモレは、互いの顔を見つめあった。
 「わたしのようなものを、これまでよくぞ立ててきてくだされた。わしに力がないため、老いたおまえさままで誅殺の道連れにして申し訳ない」
「なにも案ずることはない。わしはおぬしを盟主とさだめ、天皇の軍勢とやり会ってきたが、決しておぬしのために戦いをしてきたわけではない。誰のためでもなく、わしは自分の心のために日高見国を守ってきたつもりじや。わしが生まれ、わしらの祖先たちが生きてきたなっかしい山野、それを人の手に渡したくなかった。わしらの祖先たちが生きてきたなっかしい山野。それを人の手に渡したくなかった。わしは自分のためだけ、十分生きた心地がする。」
 自分に向かい、モレの目が柔和にうなついていた。
私もこんな気持ちで 組合運動 社会運動 今は産業廃棄物処分場建設阻止運動中。後世
に残す「花の山」造成中。 以上。 米寿 佐久間清登

2013年1月21日月曜日

歴史の背景を知りたい


歴史の背景を知りたい
  歴史のお話を聞いていると、その時代の背景が抜けています。少しでもいいからその時代を支えた百姓、町人の生き様を語ってください。
  うっかりすると肝煎(肝入)は今のような選挙で選ばれ、城主も領民の圧倒的な支持があって御濠を、お城を造った様にも思えます。そうであればお城は領民のものでお城の立派さも自慢できます。
  然し、よーく考えて見ましょう。今の城跡は観光の拠点になっているところが多いですが、封建時代には百姓、町民は大手門に近づくことも許されず、無断で入れば打ち首だったでしょう。
  お城を造ったのは百姓の労力が総てで監督は侍です。封建時代の士農工商の人的比率は大よそ3対90対3対3対と思います。殿様を頂点とする武家階級は総人口のたった3%の人口で97%の領民の生殺与奪の権限を持っていました。殿様は百姓町民の労力で競って立派な堅固なお城を造りました。立派で堅固であればあるほど百姓の汗と血が流され、生命が奪われたはずです。
  お城を造り維持するには「ごまの油と百姓は絞れば絞るほど、取れる」というその百姓を惜しみなく投入されたはずです。お城は近隣諸国にその威を誇示し、戦いに勝利する為ばかりではなく、最も恐れてたのは領民の百姓一揆ではなかったのか。
  中村城の北外堀の幅は14~5mです。宿敵、伊達62万石の来襲があれば一気に小川を渡る勢いで渡れる幅です。大手一の門だって62万石の軍兵を持ってすれば用意に突破出来る構造です。
  領主が武家集団が悪いというのではありません。封建時代とはそのようなものでした。
今の社会にも封建時代の残りかすが見え隠れし、庶民の底辺を脅かしています。
  世界第三位にはなりましたが日本はまだまだ経済大国です。なのに、若年層の失業率は10%とは、どこをどうすればいいのでしょう。
  丸森町あぶくま荘は不動公園の一角にあります。公園のほぼ中央に切り石の乱れに囲まれた2坪くらいの藪同然のところがあります。ここに菊地多兵衛についての朽ち果てた説明版が立てられています。インターネットで見ると。
 菊地多兵衛  江戸時代後期の一揆指導者
陸奥伊具郡丸森村の農民。文政6年(1823)仙台藩領の丸森村の農民が夫役など特別付加税の減免と村役人の不正を代官所に出訴したとあり運動の中心となった。訴願は偽りとして退けられ牢死した。字(あざな)は尚久とあります。
 正しくは村役人こそ裁かれるべきものを。封建時代とはこんなものです。
144年前の戊辰戦争で東軍が勝った数少ない筆甫戦場を守ったのは「仙台藩から200名、角田石川家臣300名、丸森佐々家の手勢100名都合600名が陣を布き、本陣を常照寺に置いた」とあります。筆甫の人は賦役に使われた以外は山奥に逃げ隠れして戦場には出ていません。私の曽祖父「忠平」は20歳、井戸の入屋敷のその奥の山に逃げ込み銃砲の音に怯えていた、と聞いています。
  曽祖父「忠平」には仙台魂も筆甫魂もなかったとしても魂はあったはずです。その集団としての記録は何も残っていない。淋しいです。
百姓町民が軽視された社会、歴史は支配者階級だけの記録ですが中には世相そのままの記録も残っています。
 相馬市史5資料編2 656頁に
天明救荒録微臣  紺野嘉左衛門基重  誠惶稽首拝(相馬市新妻三男氏蔵)には人口は三分の一に減少したとあり「天明救荒録」を読む限りでは支配者の武家階級の餓死者の記録はありません。逃亡し餓死したのは食料生産の担い手、百姓だけです。
 647頁 宝暦山中飢饉聞書 筆者不明
その666頁には「則母其子の肉をそぎ食しけれ共、人の肉を食うものは存命えがたきもの故 終に死せりと也」と。
  なぜ何故なぜ、これらのことを一部でも良いから歴史の表舞台に引きづり出して、今の世の庶民の生活向上の糧にしたいのです。
  3%の武家の栄枯盛衰だけが語られ97%の百姓町民の生き様は何だったんだろう。知りたいです。
                   佐久間清登  0244355826