2011年12月15日木曜日

市民会館建設について


 中村城=馬陵城は今に残る土塁の城としては全国に3箇所しかない貴重な城址と聞いています。天下の名城と言う人もいます。
 然し、見たところ、台地の周囲を削り取り芯を残して本丸とし、本丸を囲むお堀は巾が狭く鶴ケ城のお濠とは比較になりません。
 一般の観光客は天を突く石垣、天守閣がないと「なーんだ」と寄り付きません。それを知ってか相馬の代々の首長は大阪冬の陣よろしく、お堀を埋めてきました。
 相馬さんは昭和23~24年、城内のそれぞれの土手のに茂っていた樹齢4~500年の杉の古木を1本残らず売却しました。中村町長三田四郎は中堀の北半分=田子屋堀を埋め立て宅地化し、丸土張を削りお厩池の一部、泣面池の一部を埋め立てそれぞれグランドとしました。相馬市長横山宗延は本丸下のお掘を埋め立て交通公園を造り、泣面池を埋め立てて三道会館(今はない)を建てました。相馬市長今野繁は今回の中堀を埋めて市道を造り、二の丸に照明設備を完備しクランドを本格化しました。今度は相馬市長立谷秀清、復元どころか一回壊した中堀の一部に市民会館を引っ掛けて建てるという。市民会館を建てれば今後中堀の復元は不能。
 運慶作の立像に例えた人がいます。
「鼻が欠けたり手が無かったり、脚が無かったりしては、折角の名人作もかたなしだ、それと同じように、お堀にとって、土塁は鼻であり石垣は手でありお堀は脚である。何れを損傷しても価値がなくなる」
 口を開けば「中村城と中村城下町」と言いながら心は城址壊し、それを見逃す相馬市民、市長は民度に応じた市政を執行します。相馬市民の民度が低いと言われればそれまで。心有る市民はどこに、どう訴えればいいのでしょう。馬陵城址は壊しきらずに後世に残したいものです。
 大都会のど真ん中でもあるまいし、たった15m東にづらして建てられないものかなー。

2011年12月5日月曜日

私の人生

 私の一生は私なりに多忙でした。20代は子造り、子育ての時代かな、第一子の誕生は昭和25年て゜す。あっ言う間に終りました。
 昭和29年3月31日町村合併により相馬市発足、この年に私が中心になって相馬市職員組合(現、相馬市職員労働組合)を結成し、昭和49年(49歳)4月まで動きに動きました。「私の相馬市職労史」の前編は「前進、前進、そしてかがやける日々」後編は「斜陽、そして試行錯誤の日々」を書き残しました。
 この間、日本中国友好協会、ベトナム日本友好協会で主たる役割を果たしました。相馬地区労働組合、日本原水爆協議会で従たる活動をしました。
 
 昭和50年代に入り「お堀を元に戻す会」を創り馬陵城址のお堀へ丸三製紙工場工場とカネボウ製糸工場が汚水を放流しのでこれを阻止し、相馬市にヘドロを撤去させました。
 昭和58年4月に相馬市議会議員に初当選、3期12年その職責を果たしました。議会の会派には入らず1人是々非々を守り通し、今も「佐久間さんはよくやったよなー」と、お褒めの言葉を戴くことがあります。
 私の人生は苦難あって生き甲斐のある人生でした。
近年、後世に残すための花の山を造成中ですが、脳が荒山を駆け巡るだけで体力が中途半端です。最近花の山に行かないので時間が余ります。
 ふと気付いたのが古典です。古事記です。「稗田阿礼がその昔から語りつがれて来た古事を語り、太安万呂が書いたもの」とは学校の授業で知りました。先生が「吾が身は成り成りて、成り会わぬ処一処在り」を説明するとクラスの皆がゲラゲラ笑ったことや「天の岩戸」の原典が古事記であることは知っていましたが「因幡の白兎」の原典が古事記であることを今回再確認しました。古典のあることは知っていましたが改めて古典の通訳本を読むと「ああそうだったのだ」とうなづけて面白いです。
 平家物語、方丈記、竹取物語。枕草子(角川書店=編)清少納言の文章の滑らかなこと、吸い込まれます。清少納言という女性と思っていたのに清は名前、少納言は官職名でした。
 ふと書棚を見たら「生命の起原と生化学、オパーリン著、江上不二夫編」がありました。
無機化合物から有機化合物への転化。蛋白質の生成。物質代謝=外界との間に物質およびエネルギーのだし、いれ。生命の発生。全ページわからないことばかりでした。多忙?に任せて読まなかったものを87歳の今、読んでいます。