2011年12月15日木曜日

市民会館建設について


 中村城=馬陵城は今に残る土塁の城としては全国に3箇所しかない貴重な城址と聞いています。天下の名城と言う人もいます。
 然し、見たところ、台地の周囲を削り取り芯を残して本丸とし、本丸を囲むお堀は巾が狭く鶴ケ城のお濠とは比較になりません。
 一般の観光客は天を突く石垣、天守閣がないと「なーんだ」と寄り付きません。それを知ってか相馬の代々の首長は大阪冬の陣よろしく、お堀を埋めてきました。
 相馬さんは昭和23~24年、城内のそれぞれの土手のに茂っていた樹齢4~500年の杉の古木を1本残らず売却しました。中村町長三田四郎は中堀の北半分=田子屋堀を埋め立て宅地化し、丸土張を削りお厩池の一部、泣面池の一部を埋め立てそれぞれグランドとしました。相馬市長横山宗延は本丸下のお掘を埋め立て交通公園を造り、泣面池を埋め立てて三道会館(今はない)を建てました。相馬市長今野繁は今回の中堀を埋めて市道を造り、二の丸に照明設備を完備しクランドを本格化しました。今度は相馬市長立谷秀清、復元どころか一回壊した中堀の一部に市民会館を引っ掛けて建てるという。市民会館を建てれば今後中堀の復元は不能。
 運慶作の立像に例えた人がいます。
「鼻が欠けたり手が無かったり、脚が無かったりしては、折角の名人作もかたなしだ、それと同じように、お堀にとって、土塁は鼻であり石垣は手でありお堀は脚である。何れを損傷しても価値がなくなる」
 口を開けば「中村城と中村城下町」と言いながら心は城址壊し、それを見逃す相馬市民、市長は民度に応じた市政を執行します。相馬市民の民度が低いと言われればそれまで。心有る市民はどこに、どう訴えればいいのでしょう。馬陵城址は壊しきらずに後世に残したいものです。
 大都会のど真ん中でもあるまいし、たった15m東にづらして建てられないものかなー。

2011年12月5日月曜日

私の人生

 私の一生は私なりに多忙でした。20代は子造り、子育ての時代かな、第一子の誕生は昭和25年て゜す。あっ言う間に終りました。
 昭和29年3月31日町村合併により相馬市発足、この年に私が中心になって相馬市職員組合(現、相馬市職員労働組合)を結成し、昭和49年(49歳)4月まで動きに動きました。「私の相馬市職労史」の前編は「前進、前進、そしてかがやける日々」後編は「斜陽、そして試行錯誤の日々」を書き残しました。
 この間、日本中国友好協会、ベトナム日本友好協会で主たる役割を果たしました。相馬地区労働組合、日本原水爆協議会で従たる活動をしました。
 
 昭和50年代に入り「お堀を元に戻す会」を創り馬陵城址のお堀へ丸三製紙工場工場とカネボウ製糸工場が汚水を放流しのでこれを阻止し、相馬市にヘドロを撤去させました。
 昭和58年4月に相馬市議会議員に初当選、3期12年その職責を果たしました。議会の会派には入らず1人是々非々を守り通し、今も「佐久間さんはよくやったよなー」と、お褒めの言葉を戴くことがあります。
 私の人生は苦難あって生き甲斐のある人生でした。
近年、後世に残すための花の山を造成中ですが、脳が荒山を駆け巡るだけで体力が中途半端です。最近花の山に行かないので時間が余ります。
 ふと気付いたのが古典です。古事記です。「稗田阿礼がその昔から語りつがれて来た古事を語り、太安万呂が書いたもの」とは学校の授業で知りました。先生が「吾が身は成り成りて、成り会わぬ処一処在り」を説明するとクラスの皆がゲラゲラ笑ったことや「天の岩戸」の原典が古事記であることは知っていましたが「因幡の白兎」の原典が古事記であることを今回再確認しました。古典のあることは知っていましたが改めて古典の通訳本を読むと「ああそうだったのだ」とうなづけて面白いです。
 平家物語、方丈記、竹取物語。枕草子(角川書店=編)清少納言の文章の滑らかなこと、吸い込まれます。清少納言という女性と思っていたのに清は名前、少納言は官職名でした。
 ふと書棚を見たら「生命の起原と生化学、オパーリン著、江上不二夫編」がありました。
無機化合物から有機化合物への転化。蛋白質の生成。物質代謝=外界との間に物質およびエネルギーのだし、いれ。生命の発生。全ページわからないことばかりでした。多忙?に任せて読まなかったものを87歳の今、読んでいます。

2011年11月25日金曜日

「財界ふくしま」12月号は書きました。

鈴木一弘(明星鉄鋼(有)取締役)、門馬優子((有)東部ダンボール工業取締役)については「立谷市長が地域を担う若手を育成するために組織した「立谷塾」と呼ばれる勉強会のメンバーで、いずれは政治の舞台に出ると思っていた。杉本君もその一人ですが、この3人は去年から話が聞こえてましたからね。松下塾じゃなくとも、言わば、立谷市長の門下生でしょう。相馬の市議会議員は立谷塾ばかりになりますよ」と。別行で「小泉は立谷の右腕と言われているが」と。以上。
 私は
平成23年11月20日の選挙投票で当選された各位に先ず「当選おめでとう」を申し上げます。
 併せて「地方自治法第6章、議会」をもう一度よく良く読んで見てください。とも。
議会は市長がやろうとすることに 1、よい。2だめ。3修正した上で どうぞ の役目があります。
 門下生は塾長の思想、心情に心酔し行動をともにします。止まれ、ここでは議員と門下生は両立しません。両立は市民にとって「百害あって一理無し」門下生として塾長に忠実であれば市民を欺き、当然ながら地方自治法を守れば塾長立たず。諺の「両方立つれば身が立たぬ」が適切かな。この途を選んだのは貴方です。
   好事門を出でず 悪事千里を行く

2011年11月24日木曜日

イルミネーションの美「ノー」

 日本は山紫水明の国です。今、野山は錦秋の候です。自然の美は日本人の心です。
近年、自然の美に加えて、加工の美イルミネーションが盛んになっています。悪いことではないとしても、この電源に、もし、原子力発電による電力が使われているとすればイルミネーションの美はいかがなものでしょう。
 電力万能の日本社会は水力では電力が足りない。火力でも足りないと原子力発電に手を染めました。結果は今回の(株)東京電力福島原発事故、放射能被害、同風評被害。この被害は孫子の代に引き継ぐことになりました。
 計り知れない恐ろしいことです。イルミネーションもこの一端を担っているのではないでしょうか。イルミネーションに限らず過度と思われる電力使用は止めるよう皆んなで考えてはいかがでしょう。

2011年9月28日水曜日

相馬市の水道水 放射能不検出

   相馬市の水道水 放射能不検出  物事にこだわる私は「不検出」では納得できないのです。 相馬市の私たちが飲んでいる上水道の水源池は飯館村大倉にあります。飯館村は放射能被害で全村民が他に避難しました。大倉集落も同様と思います。その大倉に降った雨水の殆どは大倉ダム(羽山湖)に貯水されその水が相馬市の水道水の約6割を占めると言う。  県庁の担当者に電話で聞いたが放射能について無学なせいか担当者の説明がさっぱりわかりませんでした。分ったのは「相馬市の水道水は放射能不検出、阿武隈川の水も放射能不検出です」と聞いて、ああしかたがないんだと電話を切りました。  後日福医大に電話で聞きました。いろいろと分らない話が続き「フィルターでセシウムを除去しているようです」納得できなかったがこれで終り。  弟が「測定器でその水道水を測ればいい」と。9月28日ステンレスのボールに水道水を入れ個人に測るっていただきました。庭の放射能は0.48ミリシーベルトでそこに置いたボールの水道水もおなじ、これで分った、ボールの水道水の放射能測定値が庭の測定値より高ければ水道水の測定値は出るが水道水の測定値が低ければ庭の放射能に打ち消されてボールの水道水の放射能は測定できない。不検出となるのかなー。「放射能不検出」とはどんなことなのか教えて下さい。相馬市の水道水の放射能は0ではあるまい。

2011年9月24日土曜日

日本の古典を読んでいます。

日本の古典を読んでいます。 心境の変化があって「古事記」(角川書店編)を読みました。86歳になった今、古事記を読んだのが初めてです。古事記には天の岩屋戸、三種の神器、因幡の白兎、八俣の大蛇などなど、私たちが小中学校の時の教科書にあった説話がいっぱいありました。木を見て森を知らなかっただけです。その原典を読んだのが初めてなのです。ずうっと見たい読みたいと思っていましたが今になってしまいました。読んで気持ちがさっぱりしました。それにしても神様がいっぱい出てきますね。神様ばかりです。  歳とともに人それぞれ時間を上手に使っていますが、私はそのひまつぶしとして古くて新しい発見を求めて、これからも「日本の古典」を読んでみようと思います。

2011年9月11日日曜日

口惜しいなー

9月10日に民主党へ次のメールを送りました。
口惜しいなー
鉢呂大臣はクビです。人の心のわからない人は人前に出るな、出すな。大臣の質が低下しています。問答無用。
そのせいか
鉢呂経済産業大臣は同日午後6時30分辞表提出、受理され、クビになりました。
私のメールに対しクビになる前に民主党から「受理しました」との返信が有りました。

2011年9月7日水曜日

東北新幹線 上野駅は墓場だ?

 去る日、東北新幹線上野駅に下車しました。降りたのは若い数人と私たち老夫婦だけでした。若い数人は足早に、いずくかへ去り、残ったのは私たちだけで駅員も居ない、案内板を探しながら進みました。エスカレーターに何回か乗り換えて何時も見る発着ホームにたどり着き一安心。進むに従って人人人で思うように進めなかった。漸くして山手線の何時もの一番ホームに着き、又一安心。内回りの電車に乗ったところで考えました。もし、東北新幹線上野駅で大災害に遭ったら私は逃げる方法を知りません。逃げる方法は知らずとも生きた人間です。真っ暗の中をあてどなく手を引き合って走るでしょう。災害で発生した瓦礫にぶっつかリ血を流しながら狂い狂って逃げ惑います。やがて真っ暗い地獄さながらの中で死に至ることでしょう。あのような地獄駅を考え出した馬鹿者は何処の誰だ。交通の利便至上主義で人命無視です。地上の上野駅だって大災害には弱い。解消方法の第一は人間の分散です。都内の高いビル建設をストップし、面の拡大、郊外開発の研究に入るべきです。

2011年7月20日水曜日

そうま魂(2)

野馬追の旗がなる♪♪
 私は今も そうま魂 のステッカーを車に貼ってあります。
「1200年の伝統を誇る天下の相馬野馬追」とポスターや文書が、そして口にします。例年は3日間の行事ですが、今年は東日本大震災と放射能で来る23日だけです。この日に向けて「野馬追の旗が鳴る」のです。商店街、特にお神輿をお守りする騎馬武者のお行列が通る町並みには軒込め、この旗が立っています。この旗が立ち並ぶ中をお行列が威風堂々、通るって行く。なんと見事な景観。 ところで一歩裏通りには、このは旗1本も立っていません。
 加えて、居住地区、田園地帯、山村部にも、この旗は見かけません。 
相馬市の世帯数13594、この半数でもいい「野馬追の旗」を鳴らすならば「1200年の伝統を誇る天下の野馬追い」の土地に相応しい雰囲気が、もっともっとかもし出されるものと思います。観光客も目を見張ることでしょう。
 そうま魂を発揮しませんか。
今街頭に立っている野馬追の旗は20余年前に相馬商工会議所が斡旋販売したものです。私はその時に買い、今も立てています。 皆で立てて そうま魂 を発揮しましょう。

2011年7月18日月曜日

原発政策は犯罪だった。加刑を。

国民の平穏な生活を破壊した政治は犯罪です。
 東京電力(株)福島第一発原子力電所事故で放射能が東日本全域に飛散した。遠くは柏市の清掃工場で出た焼却灰から1kあたり7万ベクレルを超える放射性セシウムが検出された。と、7月11日発表。
 飛散した放射能の濃度の高い地域に先祖代代住み慣れてきた、墳墓の地を泣く泣く去った人達。
高濃度の放射能で被爆した人は、例えば、20年生きるところ十五年で死ぬかも分らないが、その原因は放射能のせいかどうかも分らないという代物です。
 私たちが営々と築き上げてきた長寿社会は今後、心が冷え込む短命社会に転落する様相を呈しています。
こんな日本にしたのは誰だ。  過去の政治家です。
 政治家は国民が住んでよかったという国づくりに働くべく国民が選んだ代議士です。その政治家が国民の期待を裏切り国民が住めない、すみにくい社会を造ったとすれば、それは犯罪です。過去に悪政を政策決定、執行し処罰されたのは、極東国際裁判だけです。これは戦勝国が敗戦国の政策決定、執行者を処罰した。どこか、しっくりしない処罰方法でした。これ以外、悪政故に裁判を受けたことは知りません。その法律もありません。これでは政治家は悪いことの、し放題と、なる心配があります。そこで、政治家が政策決定、執行で国民の生命財産を奪った場合、それを裁判にかける前例を作るべきです。その悪政に該当するのが今回の東京電力(株)福島第一原子力発電所事故です。
 国の原子力安全委員会が1993年「発生確率は小さい」「原子炉が重大な事態に至る可能性は低い」と報告した。この「小さい」「低い」は0を想定したのではないのにゴーサインを出したのは政治家です。この政治家を追跡加刑すべきです。最高刑は財産没収。
 国民が塗炭の苦しみの中にいる今、仮に原発がらみで蓄財し、今、ぬくぬくと生きているとしたら、これは許せない。 如何でしょう。

細川先生

 高島易断所本部編纂の平成23年福寿暦を見たら私は86歳です。
昭和13年3月筆甫尋常高等小学校、高等科1年を終了した私は東京、世田谷に住んでいた叔母のところに口減らしの為に出され、世田谷高等小学校第2学年に編入しました。この時の担任の先生が細川先生と言いました。この先生、特に厳しい先生で朝の会の時、ふらふらし、落ち着かない児童を見つけると担任以外の児童でもかまわず飛んで行って気合をかけました。
 この先生、私が2年生の時、叔母に「将来ある子供だから家庭教師をつけて勉強すれば師範学校に入れるぐらいの学力がつくと思う、家庭教師料として木炭10表(1俵16kg)出せないか」と、相談を持ちかけられたそうですが、父は「生活が精一杯で出せない」と、断ったと聞きました。
 今日は7月12日、今年の夏も去年と同様に暑い日が続き33℃。私は晴雨に関係なく月~金まで桜丘小学校の遠くを「見守り隊」として1周すること5年。今日も何時も見慣れている鹿狼の峰の上の入道雲が。私は入道雲が目に入ると、歩きながら「雲の峰、空崩れ、ごろごろっと音して、、、、、、、夕立はげに夏の眠気覚まし♪♪」が口をついて出ます。この唱歌、細川先生がオルガンを弾く、児童が口を揃えて歌いました。細川先生はもうこの世にいない年齢です。
 「もっと早く何故捜さない」その通りです。私は後ろを振り向かない、猪突猛進型の性格ですが、細川先生を思うようになったのは、定年退職、市議3期12年、4期目落選で、今から16年前のことです。世田谷教育委員会に問い合わせて見ましたが名簿すらありませんでした。折に触れて細川先生を思い出すのですが、いまだ捜す方法すら見つかりません。細川先生以外の方々でも会ってみたい、捜して見たいと思う人も多多ありますが、あまりにも永い空白期間。  そこで各位に云いたいこと。
 自分の人生を振り返って見ても何の役にも立ちませんが、齢86歳、さしたる仕事もありません。ぼんやりしている空白を埋めるには過ぎ去った思い出です。人生10年目ごとぐらいに過去を振り返っておくと、齢86歳頃になっても空白が少なく、充実した日々を送れるはずです。
 このホームページをお読みいただいた各位、今までの人生を振り返ってみてください。そして、その後10年ごとくらいに。そして、86歳を迎えた頃は思い出がずっしりの日々を送ることができるはずです。

2011年7月1日金曜日

沖縄米軍基地

 6月19日(日)夜、テレビの大河ドラマ「江」が終わって「昔、父は日本人を殺した」(沖縄戦)を見ました。
 毎朝「おひさま」を見ています。「おひさま」は今、昭和20年、日本敗戦の頃の日常生活をドラマ化して放映中です。
 戦争は相手を殺す為の行為で、相手を殺さないと自分が殺されるが基本です。その相手と私は見知らぬ他人で敵ではありません。今は相手を殺す規模が違います。核兵器で地域毎、皆殺し、中心から外れた地域は半殺し、放射能、生き地獄です。
 日本は戦争に負け昭和22年5月3日から日本国憲法のもとに生きています。
第9条 日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 とあります。
 平成23年度、日本国予算に国防費約5兆円÷日本人口1億2500万人=1人当り4万円。「戦力は、これを保持しない」と、定めているのに1人頭4万円の国防費を使う。「日本には陸海空軍があるんだぞー」と、ある種の威嚇をかけている。
 兆単位の富を持つ人は自分の集団を守りたいでしょう。私たちはそれに利用されているだけ。
私は87歳、私の宅地140坪、建物60坪、これを奪いに来る外国は居りません。其の他、自衛隊に守っていただきたいものは何も持っていません。
 巨大企業に「5兆円はおら方で出すから、まあまあ」と言われても命を差し出すのはお断りです。
「戦力はこれを保持しない」の日本国憲法、第9条があるのに日本国憲法違反の勢力が権力を持っています。その勢力に国政選挙で多くの国民が支持投票する。どうなってんのこの国。相馬市には「相馬市9条の会」と、言うのがあります。この種の団体を多数派にしなければなりません。
 軍事力では物が手に入らない世界にすれば戦争ののない世界になります。戦力を持つ国を戦力を持たない国で経済封鎖するのです。世界には独立国が195あります。このうち18国(パナマ。ハイチ。アンティグア。バーブーダ。セントルシア。セントクリストァーネイビス。セントヴィンセント。グレナディーン。ドミニカ国。グレナダ。ナウル。ツバル。キリバス。モナコ。アンドラ。バチカン。サンマリノ。リヒテンシュタイン。アイスランド。)は戦力を持っていません。日本は此処に仲間入りして、その数を半数以上にするのです。日本の場合、仲間入りは、その気になれば何時でも出来ます。「戦力はこれを保持しない」の憲法が既に出来ているから。
 特定の人と集団毎に持っている何兆円もの富、お金は私の生活にどう役立っているのでしょう。知りたい。
沖縄米軍基地
 沖縄はアメリカの対中国戦略の最も重要な最前線基地です。核兵器戦争の時代です。戦争が起きると、沖縄の大半は核兵器でぶっ飛び健全者なし、残る重軽傷は放射能汚染、生き地獄です。沖縄を核兵器から守るには、戦力を置かない島島とする以外ありません。
 23,6,23、朝日新聞、天声人語、前段「かつて「武器のない島」だった沖縄が、あのナポレオンを驚かしたという話がある。19世紀の初めに英軍艦が沖縄諸島の周辺を航海した。帰途、セントヘレナ島へ寄航し、流刑の身の元皇帝に艦長が会ったという 沖縄には武器がないという話を、ナポレオンは理解てせきなかったそうだ。 「武器がなくてどうやって戦争するんだ」「いえ、戦争というものをしらないのです」「太陽の下、そんな民族があろうはずがない」-岩波書店刊の「1月1話」という本に紹介されている。
「戦力は、これを保持しない」ことについては皆さん同様、もっともっと書きたいことがあります。

2011年6月15日水曜日

議員定数

暫くぶりで知人とフルーツエンドーの前の駐車場で立ち話。被災者支援について、それなりの持論をお聞きしました。 関連してか、
 「相馬市の議員の数を減らせばいいんだ」と、言う。
私が市会議員だったとき(昭和58年4月から平成7年3月まで)の議員定数は法定とおり26名。現在は20名。減らして何がよくなったのでしょう。何名まで減らせば市民は納得するのでしょう。 市民の心は議員の数ではありません。
 「市長と議会は車の両輪」とんでもない。市長とチェツク機関が一緒になつて走り出したらどうなります。市民を無視する暴走機関と化します。
 議員が与党化して議会が法の求めるチェツク機能を喪失しつつあるため起こる「議員の数を減らせばいい」になるのです。 チェツク機能は数が多いほうがいいのです。市会議員=市民の代弁者は多いほうがいいのです。 「多いと経費がかかりすぎる」 そうであれば今の議員報酬を減らせばいい。
 議員の出勤日数。3月、6月、9月、12月の定例議会毎約半月出勤、他に臨時議会(殆ど1日)が年に2~3回。4月、5月、7月、8月、10月、11月、1月、2月はフリー。此れに対して毎月の報酬375000円夏冬ボーナス付き。
 375000円×12ヶ月×20名=X   X÷26名×12ヶ月=報酬額  こんな方式で論議しては如何でしょう。
 チェツク、監視の目は多いほうがいい。与党議員は悪の根源、でも与党になりたがる。

2011年6月13日月曜日

そうま魂

書こうかな、いや止め様。暫くして又、書こうかな、いや止め様。と。思い始めたのは、
東京の孫が5月の連休に相馬にボランティアに来て9日間「ノロあげ作業」 勿論、私の家に泊まりました。
「おじいさん、今日のボランティアの人達は遠くからきた人だけだったよ」 「今日は相馬の人1人居た」と。地元、相馬市民のボランテイァはごく僅かだったようです。
その孫が毎日の様に「そうま魂」のステッカーを買ってきました。私もそのステッカーを1枚自分の車に貼ったものの「そうま魂」と現実に違和感があるのです。
相馬市民で被災しなかった(屋根瓦が飛んだ位は別)家庭は約9割と思います。この人達は同じ市内に住んでいてもボランティアには出ていないようです。
市長はこの市民に向かって「被災されなかった皆さん1日でもいいですからボランティアに出てください。「ノロあげばかりではありません、バケツ、雑巾持参でもいいのです、お願いします」と、訴え、支援組織を作ることです。市民の心を動かすのは市長です。同じ市民の苦しみを分け合ってこそ「さうま魂」と思います。今でも未だ遅くはない。
孫が勤めている会社の社長さんに一礼。この社長さん、連休以外のボランティア日数は特別休暇で有給、その上、交通費は社長さんのポケットマネーだったそうです。

2011年5月20日金曜日

投稿採用

私は感じたことを胸の奥にしまいこんでおくことが、なかなか出来ない性分です。次の投稿をする時も「憎まれるのでないの」と忠告をいただきました。
   福島民友 2011年5月7日 「窓」に採用
 相馬市 佐久間清登 86歳 無職
 私の家は津波の被害を受けた所から約5キロ山の手にあり無事でしたが、今もって放射能が気になる毎日です。
去る4月30日、組長さんから「被災者支援のお米、水、リュックサックが届いているから取りに来て下さい」と電話がありました。「うちは何も被害がなかったので要りません」とお断りしたところ、「引き取っていただかないと困るんです。先ほど区長さんが隣組15軒分、うちに置いていったので」とのこと。
 組長さんを困らせても悪いと思い、米10キロ入り1袋、水1リットル入りペットボトル2本、リュックサック1個をひとまず受け取り、自宅に持ち帰りました。
 これは全国から相馬市に届けられた災害救援物資だと思います。家では蛇口から水が出て、それを飲んでいます。
 市役所では今、被害者の対応、復興に向けた数限りない業務で四苦八苦の状況だと思います。
それだからこそ被災していない世帯まで救援物資を届けるという、この労力を被災者に向けるべきだと思います。

2011年5月12日木曜日

大震災

私、近年、東工学園同窓会誌に毎回投稿しています(昭和18年12月26日卒業)
今回の投稿
私の住む相馬市にも微量の放射能が飛来したせいか、私、文章がよくまとまりません。3月11日の大震災後、山形の娘の家に17日間、避難しました。相馬市も海岸地帯の建物は全部なくなりました。この地帯は壊滅状態ではなく壊滅してしまいました。この現実を前に頭の中が混乱し、まだ元に戻りません。
相馬市民の479名が、この世からいなくなりました。防潮林もなくなりました。そこでは一瞬にしてこの世がなくなってしまいました。幸いにも私の家は海岸線から約5km山の手なので津波は来ませんでした。被害はありません。地獄、極楽の境目はこの5km線上にありました。ところが天災の後には人災「放射能」という問題がこの地獄、極楽を一気に呑みこんでいったのです。目にも見えず、人体にも何も感じない放射能が今、私たちの身辺にひたひたと忍び寄っているのです。このやるせなさ、想定外は許されません。
そんな最中に希望の光が、原発事故地点から45kmに在る相馬市にも今、ボランティアの方々が大勢来て懸命に活動してくださっています。頭が下がります。
そして、自衛隊、警察の方々を始め日本各地、全世界の皆さんのご支援、ご協力、感謝あるのみです。一日も早い復旧、復興を願って止みません。同窓会誌、紙上をお借りして、先ずはご一報のみ。
 4月30日の記

2011年4月27日水曜日

蓮池の蓮

相馬中村の馬陵城址公園内に面積18379㎡の蓮池があります。私の家からは約30m南にあたります。私がここに住み始めたのは昭和23年の暮です。
 翌年の初夏には蓮の葉が拡がり、盛夏には花が咲きましたが、まだまだ蓮はまばらでした。
昭和30年代に入り、この蓮池に源流を注ぐ水路の上流に製紙工場が出来、汚水は流し放題。城址を取り巻くお堀にはヘドロが溜まり腐って、悪臭ぷんぷん。蓮は何時しか消えてしまいました。お堀周辺の人々の中には悪臭で咽喉を痛める人が発生した程でした。相馬駅に下車したお客様が「相馬にも温泉があるのですか」と。ヘドロの悪臭を硫黄温泉独特の臭いと勘違いした人もあった程です
 私の呼びかけで周辺住民で「お堀を元に戻す会」をつくり、製紙工場を征伐したのが昭和52年でした。市がヘドロを撤去しました。そのとき多くの市民から寄せられたカンパの残金9万円余は市に寄付しました。そのお金で市は蓮池に蓮を植えました。2~3年して蓮は蓮池の全面に拡がり花を咲かせました。北側市道路面より高く葉茎が伸び花をつけた様は見事でした。おとづれる人も多く、市民の目を楽しませてくれました。昭和60年代に入り「蓮は時々掘ったほうがいい様ですね」の声もあり、一回だけでしたが蓮池の「にごし」(池の水を抜き魚を捕る行事)、これも私の呼びかけで実施、鯉をつかむ人、協力する人、見物人、蓮池の周辺にはお祭り同様の人の山。
 盛夏の頃には蓮池の東の土手下で「蓮のお花見会」も開きました。その頃、私は相馬市議でしたが、後援会の別名を「蓮池会」と名付け、秋には江下の御協力で毎年のように蓮根掘りをしました。私の市議活動12年も終わり、御協力いただいてきた江下の方々も御高齢となり蓮根の掘り取りも中止することになりました。
 平成16年初夏、盛夏、猛暑を迎えても蓮池には一枚の蓮の葉も見えない「どうしたんだろう、どうしたんだろう」と、気が気でない毎日が続き平成17年の初夏を迎えても同様でした。多くの情報を集めましたが、原因究明に至る確実な情報がないまま平成23年の今に至りました
 その間、角田市役所にお願いし「手代木沼」から2ヵ年に亘り蓮根を頂き、植えました。山元町役場の案内で磯浜に2年間に数回お伺いしましたが不発。この溜池は平成23年3月11日の東日本大地震の津波で呑み込まれてしまいました。伊豆沼にもお電話しました。弘前城址公園では蓮が激減、ザリガニ退治作戦をとると云う。佐賀城址公園では「みどり亀」が蓮の新芽を好むと云う。ザリガニ退治作戦、みどり亀対策、何れも私費では出来ません。市は蓮池の底土を調査する「予算が無い」と、お断り。土壌検査は私費でやりましたが「異常なし」でした。平成21年8月1日~2日、桑折町で「第7回蓮まつり」が開かれ、そこから蓮1樽1万円で購入、指示とおり平成22年春、蓮池周辺の方々と蓮池に植えました、そのとき、槍町の伏見さんから頂いた蓮も蓮池と北外堀に植えました。蓮池の活着は1割程度、北外堀は大成功で花が7個も咲きました。平成22年暮、妻がフルーツエンドーの店頭で「この蓮根を買って植えたら」に誘われ買って水中に保存し、平成23年4月16日蓮池に植えました。槍町の伏見さんから今年も頂き4月16日蓮池に植えました。土浦市の鈴木農園に注文していた蓮根が4月18日に届き、早速その日の夕方、蓮池に植えました。
 これからは、それぞれが芽を出すのを千秋の思いで待つばかりです。