2013年1月21日月曜日

歴史の背景を知りたい


歴史の背景を知りたい
  歴史のお話を聞いていると、その時代の背景が抜けています。少しでもいいからその時代を支えた百姓、町人の生き様を語ってください。
  うっかりすると肝煎(肝入)は今のような選挙で選ばれ、城主も領民の圧倒的な支持があって御濠を、お城を造った様にも思えます。そうであればお城は領民のものでお城の立派さも自慢できます。
  然し、よーく考えて見ましょう。今の城跡は観光の拠点になっているところが多いですが、封建時代には百姓、町民は大手門に近づくことも許されず、無断で入れば打ち首だったでしょう。
  お城を造ったのは百姓の労力が総てで監督は侍です。封建時代の士農工商の人的比率は大よそ3対90対3対3対と思います。殿様を頂点とする武家階級は総人口のたった3%の人口で97%の領民の生殺与奪の権限を持っていました。殿様は百姓町民の労力で競って立派な堅固なお城を造りました。立派で堅固であればあるほど百姓の汗と血が流され、生命が奪われたはずです。
  お城を造り維持するには「ごまの油と百姓は絞れば絞るほど、取れる」というその百姓を惜しみなく投入されたはずです。お城は近隣諸国にその威を誇示し、戦いに勝利する為ばかりではなく、最も恐れてたのは領民の百姓一揆ではなかったのか。
  中村城の北外堀の幅は14~5mです。宿敵、伊達62万石の来襲があれば一気に小川を渡る勢いで渡れる幅です。大手一の門だって62万石の軍兵を持ってすれば用意に突破出来る構造です。
  領主が武家集団が悪いというのではありません。封建時代とはそのようなものでした。
今の社会にも封建時代の残りかすが見え隠れし、庶民の底辺を脅かしています。
  世界第三位にはなりましたが日本はまだまだ経済大国です。なのに、若年層の失業率は10%とは、どこをどうすればいいのでしょう。
  丸森町あぶくま荘は不動公園の一角にあります。公園のほぼ中央に切り石の乱れに囲まれた2坪くらいの藪同然のところがあります。ここに菊地多兵衛についての朽ち果てた説明版が立てられています。インターネットで見ると。
 菊地多兵衛  江戸時代後期の一揆指導者
陸奥伊具郡丸森村の農民。文政6年(1823)仙台藩領の丸森村の農民が夫役など特別付加税の減免と村役人の不正を代官所に出訴したとあり運動の中心となった。訴願は偽りとして退けられ牢死した。字(あざな)は尚久とあります。
 正しくは村役人こそ裁かれるべきものを。封建時代とはこんなものです。
144年前の戊辰戦争で東軍が勝った数少ない筆甫戦場を守ったのは「仙台藩から200名、角田石川家臣300名、丸森佐々家の手勢100名都合600名が陣を布き、本陣を常照寺に置いた」とあります。筆甫の人は賦役に使われた以外は山奥に逃げ隠れして戦場には出ていません。私の曽祖父「忠平」は20歳、井戸の入屋敷のその奥の山に逃げ込み銃砲の音に怯えていた、と聞いています。
  曽祖父「忠平」には仙台魂も筆甫魂もなかったとしても魂はあったはずです。その集団としての記録は何も残っていない。淋しいです。
百姓町民が軽視された社会、歴史は支配者階級だけの記録ですが中には世相そのままの記録も残っています。
 相馬市史5資料編2 656頁に
天明救荒録微臣  紺野嘉左衛門基重  誠惶稽首拝(相馬市新妻三男氏蔵)には人口は三分の一に減少したとあり「天明救荒録」を読む限りでは支配者の武家階級の餓死者の記録はありません。逃亡し餓死したのは食料生産の担い手、百姓だけです。
 647頁 宝暦山中飢饉聞書 筆者不明
その666頁には「則母其子の肉をそぎ食しけれ共、人の肉を食うものは存命えがたきもの故 終に死せりと也」と。
  なぜ何故なぜ、これらのことを一部でも良いから歴史の表舞台に引きづり出して、今の世の庶民の生活向上の糧にしたいのです。
  3%の武家の栄枯盛衰だけが語られ97%の百姓町民の生き様は何だったんだろう。知りたいです。
                   佐久間清登  0244355826