2011年5月20日金曜日

投稿採用

私は感じたことを胸の奥にしまいこんでおくことが、なかなか出来ない性分です。次の投稿をする時も「憎まれるのでないの」と忠告をいただきました。
   福島民友 2011年5月7日 「窓」に採用
 相馬市 佐久間清登 86歳 無職
 私の家は津波の被害を受けた所から約5キロ山の手にあり無事でしたが、今もって放射能が気になる毎日です。
去る4月30日、組長さんから「被災者支援のお米、水、リュックサックが届いているから取りに来て下さい」と電話がありました。「うちは何も被害がなかったので要りません」とお断りしたところ、「引き取っていただかないと困るんです。先ほど区長さんが隣組15軒分、うちに置いていったので」とのこと。
 組長さんを困らせても悪いと思い、米10キロ入り1袋、水1リットル入りペットボトル2本、リュックサック1個をひとまず受け取り、自宅に持ち帰りました。
 これは全国から相馬市に届けられた災害救援物資だと思います。家では蛇口から水が出て、それを飲んでいます。
 市役所では今、被害者の対応、復興に向けた数限りない業務で四苦八苦の状況だと思います。
それだからこそ被災していない世帯まで救援物資を届けるという、この労力を被災者に向けるべきだと思います。

2011年5月12日木曜日

大震災

私、近年、東工学園同窓会誌に毎回投稿しています(昭和18年12月26日卒業)
今回の投稿
私の住む相馬市にも微量の放射能が飛来したせいか、私、文章がよくまとまりません。3月11日の大震災後、山形の娘の家に17日間、避難しました。相馬市も海岸地帯の建物は全部なくなりました。この地帯は壊滅状態ではなく壊滅してしまいました。この現実を前に頭の中が混乱し、まだ元に戻りません。
相馬市民の479名が、この世からいなくなりました。防潮林もなくなりました。そこでは一瞬にしてこの世がなくなってしまいました。幸いにも私の家は海岸線から約5km山の手なので津波は来ませんでした。被害はありません。地獄、極楽の境目はこの5km線上にありました。ところが天災の後には人災「放射能」という問題がこの地獄、極楽を一気に呑みこんでいったのです。目にも見えず、人体にも何も感じない放射能が今、私たちの身辺にひたひたと忍び寄っているのです。このやるせなさ、想定外は許されません。
そんな最中に希望の光が、原発事故地点から45kmに在る相馬市にも今、ボランティアの方々が大勢来て懸命に活動してくださっています。頭が下がります。
そして、自衛隊、警察の方々を始め日本各地、全世界の皆さんのご支援、ご協力、感謝あるのみです。一日も早い復旧、復興を願って止みません。同窓会誌、紙上をお借りして、先ずはご一報のみ。
 4月30日の記